西方行脚2016/加世田~川辺
6月1日(水) 慰霊と保存機・Ⅱ

朝食もちょっとおしゃれに
 ゆんべも明らかに食い過ぎでしたが、朝食付きじゃ食わないわけにはいきません。なんてことはありませんが、食えるうちがハナ!さ、食いに行きましょ!別棟だそうで・・・これかい!レストランも小じゃれてます!



 で、こうなる。なかなかオシャレな感じでおかずもいっぱい。もちろんお味もいたってまじめ。あまり腹減ってなかったはずなのに、おかわりして完食しちゃいました。ここ、いんでねぇかえ?エレベーター無いけど(笑)。



 はい、ごちそうさま!





無理が祟って・・・
 今日は加世田まで行くんですが、吉松で懐かしいC5552に会ってくことにしました。ルート上ですから手間はないです。ただ問題は5号です。昨日の林道走りが堪えましたかね?音チョイ増し&キャブご機嫌斜めです。音はともかくキャブだけでも、と何度か調整したんですが今一つ。アイドリング高めでだましだまし走るよりなさそうです。そうこうするうちに吉松駅到着。おっ、いました。かつて走っていた線路のほう向いてます。




 




懐かしのC5552
 昭和12年生まれで14年からずっと九州一筋で走り、47年3月~49年4月を吉松で過ごしました。最後は鹿児島の入替機となり50年に引退しました。



 タイヤこそ塗られてますが、ロッドと車軸周りは鉄の地肌!お守してくれる方がいるんでしょうね。全体のコンディションも上々!評判通りです!



 運転室内も欠品ナシとお見受けします。ガラス類も割れることなく当時のまま。ただ、なぜか圧力計だけ5キロあたりを指してますが・・・。まさかどこかにコンプが組み込まれてて汽笛が鳴る、ってか?



 さて、なぜこの機関車が懐かしの・・・なのか?それは今から44年前に遡ります。もう時効だろうから書いちゃいますが、昭和47年3月、中学2年の春休みに九州へ蒸機撮りに来た時のこと。都城で知り合った機関士さんにお願いして吉都線でこのC5552に乗せていただいたんです。↓中央の写真が機関助士席で、ここに座らせてもらい右の写真の窓からいっちょ前に前方注視なんかしてたんです。いい気なもんです。それがとっくに解体されてたと思ってたら、吉松に保存されてると知って立ち寄ったという次第。44年の時を越え座る機関助士席。感無量です!ちなみに私が助士席に座っている間、機関助士は座るとこ無いので立ちっぱなしで作業していました。今更ながらこの場を借りてお詫びします。すみませんでした!でもメッチャ楽しかったです!

  

 鉄路を走ったのが38年。保存されて41年。動かなくなってからのほうが長くなってしまいました。これも生き残れた全ての保存機関車の辿る道筋です。



 しかしこういった素晴らしいコンディションを保つのは容易ではありません。ボランティア等に頼ってばかりでは、いずれ破たんしないとも限りませんし、自治体任せも予算が付かなくなれば、持て余し→荒廃→解体。いったい何台の保存機が消えていったことでしょうか。ですからこうやって拝める、ということ自体が、本当は実にありがたい事なのだと思うんです。そのおかげで44年ぶりの再会も果たせたんですから。



 引きが取れないので2枚繋いだけど・・・ちょっと無理があったか!(苦笑)

 お次はここから2時間弱、加世田の万世特攻祈念館まで走り慰霊の部となります。栗野ICから九州自動車道、指宿有料道路の谷山ICと走り、銀山街道(県道20)で薩摩半島を横断。旧営門から石灯籠に沿って走ればすぐです。あ、もちろんスマホナビ様のお導きです(笑)。








万世特攻平和祈念館

 日本3大砂丘の一つである吹上浜の南端、太平洋戦争末期に作られた陸軍最後の飛行場「万世陸軍飛行場」跡地の一角に'93年に開館しました。建物のデザインは、少年飛行兵たちが最初に飛んだ赤とんぼ(95式中練)の複葉と合掌をイメージしています。規模、知名度共に知覧にはかないませんが、ここに展示されている零式三座水上偵察機は、国内でも数少ない残存機で重要航空遺産として展示されています。海軍機ですが、吹上浜で引き揚げられたためここに展示しているそうです。

 この水偵は、昭和20年6月4日、玄海基地(博多)からの沖縄夜間偵察の帰途敵機と交戦。燃料不足になり吹上浜沖に不時着しました。しかし不時着と言っても、プロペラが曲がっていないし搭乗員3名も生還してますから、無事着水した後沈没したのではないでしょうか?なお、展示方法については、水深5mから引き上げられた時の状態を再現しています。特筆すべきは、この機体が八木アンテナ付の電探を装備した唯一の機体だったことでしょう。皮肉な話ですが、連合軍はその八木アンテナ使って太平洋戦争前からじゃんじゃんレーダー作ってたみたいですけどね。

           

 出遅れたレーダー開発がようやく実用レベルに届いて、小型化されて航空機にも搭載できるようになった、という程度だったようですから、どれほどの能力だったかは?です。無いよりはマシ程度ですかね?



 機銃の展示もあります。上2丁が零戦の、一番下がこの水偵の7.7m/m後部旋回機銃です。これ推測ですが、敵機に追尾されて機体を滑らしながら敵弾をかわしてるような場面で撃っても、敵機に当たるとは到底思えないんですが・・・。これもないよりはマシってことでしょうか?

 

 訪問した時は社会見学でしょうか、どこぞの中学生たちが館内を埋めていました。熱心に解説する年配のスタッフの話はこの子たちにどう伝わったのか気になるところです。でも無関心にじゃれ合うようなクソガキは見かけませんでしたから、何がしかは彼らの心のひだにひっかかったと信じます。ちなみに写真はお子たちが帰ってから。いた時は撮れないって!(笑)

 

 そもそも万世陸軍飛行場というのは、元々は地元の誘致によって計画された飛行学校でした。しかし戦局の悪化により知覧の補助的基地として、突貫工事で昭和19年末に完成させ、20年3月から6月の4か月間で121機(99襲撃91、2式高練21、隼5、97戦4)が特攻出撃しました。性能的にまるで太刀打ちできないような飛行機で、です。そして201名が散華されました。しかし特攻基地ということもあって陸軍部内でも秘匿され「幻の特攻基地」とも言われていたそうです。そのためもあってか、特攻と言えば知覧と思われがちなのですが、スタッフの方が戦争の悲惨さと同様にどうしても伝えたいのがそこです。知覧だけじゃない!ここ万世からも多くの若者が南の空へ向け飛んで行った!その事実を是非記憶にとどめてもらいたい!つまり、国に殉じて散っていった若き戦士たちの生きた証を可能な限り正確に伝えたいということだと思うんです。その思いは有名な「子犬を抱いた特攻隊員」の写真にも表れています。熱い語りは続きます。



 この写真はいつの頃からか、知覧で撮られたという話が独り歩きしていました。しかし実際は昭和20年5月26日午後2時頃万世基地で撮られました。決め手は、子犬を抱いている荒木幸雄伍長が父親に最後に送ったはがきとその消印、差出住所が彼らの宿舎となっていた「加世田町飛龍荘内」であることです。これによって万世説が証明されました。しかし知覧説の独り歩きはなかなか止まらないそうです。スタッフの方はそのことも熱く語ってくれました。この若き戦士たちの生き様ですからね。私もしっかりと胸に刻むことにしましょう。なお、この少年飛行兵たちの第72振武隊はこの写真が撮られた翌日早朝沖縄に向け出撃していったそうです。合掌。





47年かかって・・・
 〆にもう一ケ所保存機めぐりとまいりましょう。お目当ては南薩鉄道時代の蒸機たち。実は小学5年の時に見た毎日グラフ増刊「日本の私鉄」の「錆びついた遺産」と題された鹿児島交通の赤さびた蒸機たちが妙に心に残っていて、いつか訪れてみたい・・・と、ずっと思っていたんです。



 ただ場所が悪すぎました。蒸機現役時代も不便過ぎて足が向きません。そうりゃそうですよ、生きてるのがまだ走ってたんですから。なけなしの小遣いで来てるのに、錆車なんかに1日だって使えませんよ。その後も西方行脚で3度鹿児島には来てるんですが、地の不利は相変わらずでなかなか予定に組み込めませんでした。それが今回はやはり行っておきたい万世とのカップリングでようやく実現したといった次第。万世からもすぐ近くなので10分とかかりません。ほどなく今はバスターミナルとなっている旧加世田駅前に到着。無料のPに車を納めまずは腹ごしらえです。元駅前なんですから何かあるでしょ。




元駅前・・・じゃないの?
 
現在バスターミナルとなっている広場がかつての加世田駅構内。と言うことはその前に広がる一帯は元駅前商店街ですよね。多少寂れたとしても食い物屋くらいあるでしょう。南薩時代からずっとやってるラーメン屋とかね。



 
ところがそんな店一軒もありません。町中歩きましたがホント一軒も無いんです。かなり離れたところまで来てようやく何軒か見つけましたが、もう元駅前というエリアじゃありません。収まった和食のファミレスも元駅前からかなり離れてます。鉄道が消えたってバスがあれだけ出入りしてるんです。駅と変わりないだろうに・・・。鉄道じゃなきゃダメなんですかね?


 それはそうとこの漬物。サービスのお茶請けですがうまい!漬物大好き人間なので止まりません!ご飯とみそ汁でもあったら足りちゃいそう(笑)



 さて、注文は極めて普通に。もちろん地のモノ、とは思いましたが全国共通標準メニュー(?)ばかりでそれらしいものが見当たらないもんで・・・。加世田と言えば!・・・何だったんでしょ?さつま揚げ?



 お味はまずまず。でも軽く不完全燃焼(苦笑)





元南薩の蒸機たち
 なぜ鹿交でなく南薩かと言えば、三州自動車との合併で鹿児島交通になったのが昭和39年。ところが蒸機は全て南薩時代に引退しているからです。廃車以来ずっと野ざらしで赤さびていましたが、整備されて南薩鉄道記念館に展示されたこともありました。しかしその記念館もショッピングセンター拡張のため取り壊され、今はバスの整備工場に保管されています。それを拝みに行こうというわけです。お~、あれか。ホントにバスの車庫です。



 作業してる方がいたので撮影の許可いただいて庫内を一回り。すると・・・



 お~!赤錆だった2号機が!なんか・・・メルクリンみたい!(笑)



 1号機もきれいに塗られてます。これも足回り赤に塗るのかな?

   

 1913年にドイツのハノマーグ(HANOMAG/Hannoversche Maschinenbau AGの略)で造られ開業から50年間走り続けたそうです。



 一回りしたのでお話し伺うと、なんとこの方ここの営業所長さんで、本業の合間を縫ってコツコツ復元してきたそうです。2号機の足回りを「ドイツ生まれだから・・・」と赤く塗ったのもこの方のアイディアです。そう言えば写真で見たことありますが05とかこの塗りでした。DLや2号機の後ろでブルーシート被ってる1号機も塗り終わり、今はこのキハ103を仕上げてるそうです。最初は所長さんだなんて知らないから当然プロだと思ったら「見様見真似の自己流です」と!どうしてどうして、なかなか本格的。黙々と作業する姿にも復活への熱い思い伝わってきます。ぜ~んぶ塗ったんですもんね!



 そして時々手を休めていろ~んなお話ししてくださいました。キハはもっと赤いんだとか、夏は暑くて屋根は塗れないとか。いずれは運動公園の12号機もこっち持ってきて復元したいとも。また、加世田に残っていた武家屋敷が観光資源になれなかったのは、お武家さんの子孫が下々などに家を見せられるか!と蹴とばしたからで、気が付きゃ知覧はちゃんと武家屋敷で成功しているなんて話も。どれも地元ならではの話ばかりですが、鹿児島交通で栄えた加世田再興の熱い思いに満ちています。この車両たちの復元もその一環なのでしょうね。広大な敷地を抱えているのは豊後森と同じです。どちらも観光資源としての鉄道公園に発展してほしいものです。



 さて、所長さんの話に出た12号機。加世田運動公園に保存されているんですが・・・。こりゃひどい!保存なんかじゃありません。放置です!この12号機は旧国鉄のC12と同型機ながら、国鉄での籍はなく昭和19年製自社発注機です。しかも既に加熱式が主流であったのに飽和式です。またC11には多数見られた戦時角型ドームも、C12では国鉄も含めた全機の中で、この12号機が唯一の個体です。そんなユニークな存在なんですから、早く引き上げて営業所長さんの手で蘇らせてほしいものです。



 さ、ちょっと早いですけどこれにて本日の予定は全て終了。ん~、なんか妙に疲れてるみたい。どんよりとした天気も心を負のスパイラルへと誘います。こりゃ早いとこチェックインした方がよさそうです。




疲労困憊・・・
 実際ホント疲れてたようです。無理もありません。キャブ不調と爆音予備軍問題が、意識してもしなくてもずっと重くのしかかってるんですから。それに行脚の疲れが相まっていよいよピークに達したか?16時過ぎにチェックインしたんですが、ベッドで横になったら動けなくなっちゃいました。しかし今ここで寝てしまうと、夜中に目が覚めて食い物買いに行くハメになりそう。だからって寝ちゃいかん!とぼんやりテレビ見てるのも結構つらいです(苦笑)。



 17時半頃まで頑張ってから仕込みに出ましたが、一番近い食い物が手に入る店がローソン。これが結構距離あります。車で?ん~、今はちょっと歩きたい(=乗りたくない)気分で(笑)。しかし行ったはいいが食欲限りなくゼロ。なので残っても良い物を軸に精いっぱいのしつらえです。食ったら寝よ・・・

 

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